実録・戦後日本と昭和政治史

 

 

 昭和史に残る政治と事件の舞台裏/「山本峯章ノート」から
 実録・戦後日本と昭和政治史1
 はじめに/政治の大動乱期だった昭和という時代 
 戦後から昭和にかかる半世紀の日本の政治は、平成令和の現代からは想像もつかない動乱期だった。日本は、世界戦争とその敗戦をへて、アメリカによる占領と独立、ソ連共産主義運動と中国革命、朝鮮戦争と米ソ冷戦という日本史上、空前絶後の危機の時代をつきすすんできた。
 危機の構造は、体制の危機でもあって、戦後、日本が、国家解体の危うきに瀕したのは、第二次世界大戦の性格上、いわば、必然的なりゆきだった。
 日本がたたかった英米旧ソ連、中国は、革命国家で、第二次大戦は、伝統国家と革命国家、あるいは、権威主義国家と民主主義国家の戦争という様相を呈して、勝利を収めたのは後者だった。
 したがって、敗戦国は、国家解体を迫られて、事実、ドイツは、東西両陣営による分割統治となった。
 日本が分割統治にならなかったのは、コミンテルンソ連共産主義運動)による中国革命と朝鮮戦争があったからで、アメリカ(GHQ)は東条英機ら戦争指導者7人を死刑にしたが、戦争の最高責任者天皇の戦争責任は問うことなく、国体も残した。
 そればかりか、旧ソ連や中国、北朝鮮に対抗させるべく、再軍備と日米軍事同盟をすすめて、旧ソ連の反対を押し切って、日本を独立させた。
 だが、戦前の日本は、ほぼ跡かたなく壊滅して、戦後日本は、容共GHQの息のかかった二流、三流の日本人、渡部昇一が「敗戦利得者」と呼んだ左翼と平然と祖国を貶める反日的な日本人が支配する国になっていた。
 決定的だったのは、20万人にものぼるすぐれた日本人を要職から追放した「公職追放令」と軍国主義の排除や国家神道の廃止を目的とする「神道指令」で、この2つのGHQ令が、事実上、日本にたいするアメリカ属国化のくびきとなった。
 公職追放令によって、各界で指導的立場にあった保守層が追放されて、教育界やマスコミ、言論界や大学など、知識層といわれる分野でマルキストが爆発的に増え、労働組合員や市民運動家などいわゆる左派勢力や共産主義者が大幅に伸長することになった。

 ●日本左傾化の元凶だったGHQ民政局とコミンフォルム
 背景にあったのは、GHQ民政局のニューディーラー(社会民主主義者)の容共政策とソ連コミンフォルムコミンテルン国際共産主義運動)の活動だった。コミンフォルムの支援で、1948年に北朝鮮共産主義国家として独立宣言すると、翌1949年、毛沢東主席と周恩来首相の中華人民共和国が誕生する。
 コミンテルンの日本支部として、日本共産党が誕生したのが、その27年前の1922年だった。1950年、その日本共産党コミンフォルムの批判をうけいれて、武装闘争(「1951年綱領/四全協」)へ路線を変更した。
 山村工作隊や警察襲撃、トラック部隊(金品強奪)、血のメーデー事件(1952年)などがそれにあたるが、武力闘争は、国民から見捨てられる(第25回衆議院選挙候補者全員の落選/1952年)。
 1950年、北朝鮮が韓国に侵略すると、極東米軍、追って、中華人民共和国が参戦して、泥沼の朝鮮戦争は、50年の休戦まで、結局、3年間の長きにわたって膠着状態が続く。
 1950年、マッカーサー指令によって日本で警察予備隊が発足、4年後の1954年に自衛隊が創設される。
 警察予備隊が編成されたのは、アメリカが在日米軍朝鮮半島に送りこんだため日本の防衛・治安がガラ空きになったからで、自衛隊創設は、アメリカが対ソ冷戦や中国対策に日本の地政学的優位性や日本の軍事力を必要としたからだった。
 1945年にルーズベルトが死去すると、数年後、アメリカでマッカーシー旋風(反共運動)が吹き荒れる。コミンフォルムの影響をうけていたニューディーラーが一網打尽になって、アメリカで、反共主義が国是となるのである。
 1948年のベルリン封鎖を境にして、GHQの占領政策が大きく変化したのも、アメリカにとって、敵は、日本の権威主義や伝統主義ではなく、ソ連や中国の共産主義とようやく気がついたからだった。
 だが、日本のマスコミは、これを批判的に「逆コース」と呼んだ。
 共産主義革命にむかう流れが順コースで、革命から遠ざかるのが逆コースという理屈である。このことからも、日本のマスコミがいかに左翼びいきかわかろうというものである。

 ●GHQ民政局に一撃をくわえた反共主義者、三浦義一
 日本で、戦後、左翼が復権したのは、マッカーサー元帥が最高司令官をつとめた連合国軍の総司令部(GHQ)がルーズベルト政権の息がかかったニューディーラーばかりだったからである。
 その傾向が顕著だったのが、憲法改正神道指令、公職追放令など社会民主主義的な対日政策をとってきた民政局だった。その民政局を仕切っていたのが局長のホイットニーとケーディス次長で、日本国憲法の制定では、この2人がGHQ草案の中心的役割を担った。
 民政局と対立していたのが参謀第2部の部長だったウィロビーで、敗戦国の指導者だけを裁く東京裁判に批判的な正義感のつよい人物だった。
 マッカーサーの片腕と呼ばれたウィロビーは、東京裁判に反対しただけではなく、日本の文化や伝統を尊重する保守主義者で『ウィロビー回顧録/GHQの知られざる諜報戦』は名著の評が高い。
 参謀第2部のウィロビーはハンサムで男らしい風貌だったが、民政局のケーディスは細おもての顔立ちで、女に弱かった。このケーディスの追い落としにうごいたのが尊皇思想家の三浦義一だった。
 三浦とウィロビーが同志的な関係にあったのは、ウィロビーは国務省共産主義の脅威をうったえて「占領軍のマッカーシー」とまで呼ばれた反共主義者で、三浦とは思想が共鳴した。
 ウィロビーは、ケーディスを倒すために三浦を利用したが、三浦も、政財界への影響力をつよめるためにウィロビーを利用した。金銭のやり取りも約束もなかった。あったのはあうんの呼吸で、三浦が女性スキャンダル(鳥尾鶴代子爵夫人との不倫)を暴いてケーディスを追い落としても、ウィロビーから一言もなかった。だが、ウィロビーは、ひそかに三浦を支援した。三浦のバックにマッカーサーの片腕ウィロビーが控えていて、日本の政財界が震えあがらないわけはなかった。
 若き日の山本峯章と三浦義一のえにしは浅くない。西山広喜が、三浦義一が再建に尽力した「日本政治文化研究所」の理事長に就いたからで、西山と山本は、三浦の門下生同士の関係にあって、この関係は、三浦が亡くなる昭和46年までつづいた。

 ●『日本及日本人』からはじまった保守言論界の反撃
西山は、昭和40年、日本新聞社から『日本及日本人』の版権を譲り受けて復刊、再刊にあたった。このとき、営業販売にあたったのが、同社役員の山本峯章、編集は、産経新聞OBの栗原、田辺らで、発送業務を担当したグループに三島事件で三島とともに自決した森田必勝がいた。
「日本及日本人」は、明治40年、三宅雪嶺らによって刊行された国粋主義的な評論集で、戦後、1950年に日本新聞社によって復刊された版権を西山が買い取ったのだった。ちなみに、姉妹誌「日本」の版権は講談社が取得している。
「日本及日本人」の執筆陣は、林房雄保田與重郎、御手洗辰雄、村松剛黛敏郎三島由紀夫錚々たる顔ぶれで、当時、保守系オピニオン誌は他に例がなかったこともあって、思想界から注目を浴びた。
 文藝春秋社『諸君!』の創刊が昭和44年で「日本及日本人」の4年あとである。『諸君!』は保守系団体「日本文化会議」の機関誌『文化会議』を月刊化したもので、当時、社長(三代目)だった池島信平は、新潮社も刊行に興味をもっていることを知って刊行をきめた。
 レギュラー執筆者は、福田恆存三島由紀夫小林秀雄会田雄次林健太郎江藤淳村松剛山本七平渡部昇一西尾幹二平川祐弘小堀桂一郎入江隆則田久保忠衛らと多彩だが、そのなかに、岩波文化人として知られる清水幾太郎がいる。
 編集会議で部員が清水幾太郎の名をあげたとき、池島信平田中健五編集長は「バーカ。清水幾太郎が文春に書くわけないだろう」と言ったが、当たってみると清水はあっさり引き受けた。清水も、思想的な転換期にあって、新しい執筆場所を探していたのだった。
 清水の核武装論(「核の選択―日本よ国家たれ」)が掲載された昭和55年の7月号は話題になって3万2000部を売り切ったが、これは平月よりも1万部多かったという。
『諸君!』に続いて『正論』『Voice』『WiLL』などの保守系オピニオン誌が刊行されて2016年から『Hanada』がくわわったが、肝心の『諸君!』は2009年6月号を最後に休刊している。

 ●「月刊グローバルアイ」誕生に至る経緯と人脈
 当時、千代田区紀尾井町文藝春秋と細い道を一本隔てた千代田区平河町にゆまにて出版という小さな出版社があった。筆者は、そこから『小佐野賢治の着眼』という本をだしてもらって、10万部のベストセラーに(1984年)なった。
 編集長が奥沢邦成で、奥沢は、のちにぱる出版を設立、現在、社長を退いて会長に就いている。
 当時、奥沢も筆者も若く、ゆまにて出版の〝実録シリーズ〟は、奥沢の発案で、筆者が編集執筆にあたった。これについて、のちにのべるが、奥沢がめざしたのはマガジン的な要素をもった単行本だった。
 ぱる出版を設立した奥沢は、1996年、筆者に、情報誌(月刊グローバルアイ)の編集人を申しつけて、そのとき、こうくわえた。
「主幹に山本峯章先生を迎えたいが、いっしょに頼みに行ってくれないか」
 山本峯章は、主幹の依頼を快諾、月刊グローバルアイは、1996年4月にスタートして、2004年6月の最終号まで通巻99号、延べ8年にわたって休みなく刊行されることになる。
 そのかん多くの出来事や事件があったが、それは、本文で追って述べてゆくことにして、月刊グローバルアイ以前の奥沢と筆者、そして、からだを張って政治の世界をとびだしていった山本峯章のうごきをもうすこし追っていこう。
 奥沢に山本峯章を引き合わせたのは筆者で、筆者が、山本峯章を知ったのは、日新報道の遠藤留治社長の口からだった。日新報道には『創価学会を斬る!(藤原弘達)』や『日本人に謝りたい/あるユダヤ人の懺悔(モルデカイ・モーゼ』などのベストセラーや良書があって、筆者は、同社から、リライトなどの仕事をえていた。
 山本峯章は日新報道から何冊かノンフィクションをだしていて、そのなかに『国益を無視してまで商売か―日商岩井/海部メモ流出の裏側』(1980年)というのがあって、同書の目次「島田常務〝謎のボストンバッグ〟」に関心が集まっていた。

 ●ダグラス・グラマン疑惑と赤坂山本峯章事務所
『海峡を越えた怪物―ロッテ創業者・重光武雄の日韓戦後史(西崎伸彦/小学館)』にこういう記述がある。
 政財界の表裏に精通する政治評論家の山本峯章の赤坂の事務所には、以前から新聞や週刊誌の記者が情報を求めて出入りしており、1976年のロッキード事件以降はその頻度も激しさを増していた。当時、特ダネを求めた記者たちが血眼になって追っていたのが、ダグラス・グラマン疑惑だった。ロッキード事件は民間旅客機の日米商戦の舞台裏を暴きだしたが、ダグラス・グラマン疑惑では、軍用機の売り込みで、政府高官に多額の賄賂が渡っているとの疑惑が浮上していた」
 ダグラス・グラマン疑惑の核心は〝海部メモ〟で、海部メモは、山本峯章の手から世に出ることになるが、その経緯や詳説は本編に譲る。
 筆者も、田中角栄無実論『だれが角栄を殺したのか』や『財界にいがた』に連載した「角栄は日米の謀略にハメられた(単行本タイトル『角栄なら日本をどう変えたか』)」(以上2点光人社/1997年)を出しているので、ダグラス・グラマン疑惑に関心があった。
 その関心も、ロッキード事件で火のように燃えた検察が、ロッキード以上の事件性をもったダグラス・グラマン疑惑にたいしてなぜかくも消極的だったのかという点にあった。
 山本峯章から電話があって、田中角栄の秘書、榎本敏夫が、インタビューですべてを語るといっている。いっしょに来てくれというもので、筆者は、この榎本インタビューで、それまでの疑問点がいっぺんで氷解する決定的な言質をえるのだが、それも、詳説は本編に譲る。
 話は日新報道の遠藤社長の話にもどる。遠藤は山本峯章を立てて『北方領土の真実』という本を出したい腹のようで、筆者に、こんな話をふってきた。
「山本峯章の行動力はケタ外れで、アメリカが日本のからとりあげた千島列島に歯舞群島色丹島国後島択捉島北方四島は入っていない、その言質をとるために、カーター大統領への質問状をもってアメリカに飛んだ」
「会えたのですかカーター大統領に」
「すでに質問状を送っているので、パーティ会場で握手をしてきたという」
「日本はサンフランシスコ条約で千島列島を放棄したじゃないですか」
「日本が返したのは、樺太・千島交換条約によって日本領に確定したシュム島からウルップ島までのクリル列島だと山本さんはいっている」
「北方4島は千島列島ではなかったのですか?」
「詳しいことは会って聞いてみることだね」
 日新報道から『北方領土の真実』は実現しなかった。1977年、山本みねあきのペンネームで、思想評論社からすでに「島は還らない/歴史・条約上の根拠とカーター大統領への便り」がでていたからである。
 その後、河野一郎の裏切りの日ソ漁業交渉(1956年)から田中角栄の日ソ共同声明(1973年)、ゴルバチョフ大統領の日ソ共同声明(東京署名/1991年)、エリツィン大統領の日ソ共同声明(東京宣言/1993年)と、北方領土問題は、紆余曲折をたどるが、これらについても、詳説は本編でふれる。
 山本峯章は、1992年以降、ぱる出版から『佐川急便の犯罪』『富士銀行の犯罪』などの告発モノや『経済改革の決断』『自民党崩壊す』などの政経モノを出版したあと、1996年、満を持して、月刊グローバルアイの主幹をひきうける。

 ●山本峯章の保守言論人としての原点
 話はもとにもどって、奥沢と筆者の出会いである。
 ゆまにて出版の編集部が立てた実録シリーズは次の三本だった。
 実録・今上天皇天皇裕仁と激動の昭和史 
 実録・戦艦三笠―日露戦争日本海海戦
 実録・徳川家康―戦国覇者がたどった波乱の生涯
 奥沢と打ち合わせて、実録・今上天皇には、戦記作家の児島襄、実録・戦艦三笠には、脚本家の笠原和夫、実録・徳川家康には、歴史学者桑田忠親の監修をえるべく交渉にあたった。
 児島襄は『太平洋戦争』で第20回毎日出版文化賞をえた戦記作家の泰斗で『戦艦大和』、『日露戦争』、『日本占領』、『講和条約』、『東京裁判』『山下奉文』『マニラ海軍陸戦隊』『インパール征討作戦』『硫黄島戦記』などのほか大著に『天皇』があった。
 児島は「監修はやらない主義だ」といって、代わりに、作家で、明仁天皇の学友だった藤島泰輔を紹介してくれた。
「女房がジャニーズ事務所メリー喜多川だ。稼ぎがいいから監修など面倒なことはひきうけてくれんかもしれんがな」
 だが、藤島は監修をひきうけると、その場で弟分の加瀬英明に電話で原稿を頼んでくれた。藤島は、評論家としては、大宅壮一の門下生で『文藝春秋』や『諸君!』などで健筆をふるっていた。
 推薦してくれたなかに入江隆則がいた。明治大学教授で『幻想のかなたに』で亀井勝一郎賞を受賞した思想家でもあった。『諸君!』『正論』の常連でだれもいいだせない核武装論を主張する豪胆な知識人でもあった。
『実録・今上天皇』における執筆者は6人になった。
 藤島泰輔/私の皇室論
 桑田忠親/現人神と人間の天皇
 西尾幹二/ヨーロッパの王朝と日本の天皇
 伊達宗克(「NHK特集 皇居」プロデューサー)/天皇制と〝善〟のすすめ
 入江隆則/抑制の制度としての天皇
 加瀬英明天皇パワーに魅せられたジョン・レノン
 藤島は「監修のことば」でこう記した。
「幸いに、あらゆる角度において秀れた執筆陣を得て、天皇論として、屈指の内容になった。(中略)読者の方々にもまた歴史をつたえる語り部になっていただきたいと思う次第である」
『実録・戦艦三笠』の監修をひきうけてくれた笠原和夫東映の大作『日本海大海戦海ゆかば』をてがけたほか『二百三高地』や『大日本帝国』で日本アカデミー賞の優秀脚本賞を受賞した脚本家で、大ヒット作『仁義なき戦い』で、名声をえていた。
 笠原から「戦争は巨大な生き物で、指先の毛先の穴に至るまで心臓の動脈に直結して呼吸している。ゆるがせにしていいものは一つもない(後略)」という監修のことばもらったが、藤島からも「日露戦争を戦った武士たち」と題する名文が寄せられた。
『実録・徳川家康』では、筆者が歴史ストリーを書き、監修の桑田忠親と作家の南条範夫、歴史学者の小和田哲夫という日本の歴史家ビッグ3が名文を寄せて、編集長の奥沢は満足げだった。おまけに、同年のNHK大河ドラマが「徳川家康」だったこともあって、ベストセラーとなった。この実録シリーズが山本峯章の天皇や保守の精神とつうじあっているのは、実録シリーズの精神や人脈が月刊グローバルアイや山本の言論活動をささえてきたことと無縁ではない。

 ●政治思想と現実政治の大きなギャップ
 ところで、実録・今上天皇で監修をひきうけた藤島泰輔と、月刊グローバルアイの監修をひきうけた山本峯章は、奇妙な偶然の一致がある。
 藤島は、参院選(第11回参院選/1977年)、山本は、衆院選(第34回衆議院/1976年)のちがいはあるが、同時期、ともに国政選挙に出馬して、ともに、惜敗していることである。
 次回は、山本峯章が、政治評論家としてスタートする契機となった選挙戦の顛末にふれる。