実録・戦後日本と昭和政治史4

 ●戦後、失われた「国体」と「臣民」という文化構造
 2008年、わたしは村上正邦佐藤優の共著で『情の国家論』を上梓したが、その7年後、佐藤優から新刊が送られてきた。『日本国家の神髄』と題名にあるように、国体論で『情の国家論』でもとりあげた大テーマでもあった。
 序章で佐藤はこう記している。
 国体を構築することはできない。国体は発見するものである。日本の伝統において「目に見えない憲法」が存在している。(中略)政治のエリートが理想にもとづいて憲法を構築するという発想はわが国体に合致しない。人間の理性にもとづいて、理想的な社会や国家を構築できるという発想は、フランス革命の左翼の発想である。左翼は、人間に理性がそなわっているとする。したがってその理性にしたがって、理想的な社会をつくることができると考える。
 一方、右翼は、人間の理性に限界があると考える。(中略)理性の限界の外においてこそ、人間の真価があらわれる。わたしの立ち位置は右翼だが、国体を肌でかんじることができる者が右翼なのである。
 佐藤は、理性主義に対立するものとして『国体の本義』を挙げたが、戦後のGHQの思想弾圧によって『国体の本義』と姉妹編の『臣民の道』は、完全に抹殺された。
 そして、GHQの洗脳プログラムにのった『未完の敗戦(なぜこの国は人を粗末に扱うのか?)』のような反日本がベストセラーになる始末である。著者の山崎雅弘はこういう。「『国体の本義』が個人を全否定したのは、国民を個人とみなすと、天皇や国体をまもるために国民が命を捧げるという全体の関係性が崩壊してしまうからである」
 戦後、80年近くになるというのにGHQの洗脳が解けないのは、憲法9条によって、GHQの洗脳教育が拡大再生産されているからで、ついに、国家のためにたたかわないことが正義という倒錯が現代の日本人の社会通念になってしまった。 

 個人主義自由主義の批判からうまれた『国体の本義』
『国体の本義』と『臣民の道』に書かれているのは、西洋的な個人主義自由主義の否定と「和の精神」にもとづく家族国家の高揚で、いわゆる日本主義のエッセンスである。
『国体の本義』にこうある。
 和の精神は万物融合の上に成り立つ。(中略)和は、我が肇国の鴻業より出で歴史生成の力であると共に日常離るべからざる人倫の道である。人々が自己を主として私を主張する場合には矛盾対立のみあって和は生じない。個人主義においては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、真の和は存しない。即ち個人主義の社会は、結局、万人の万人にたいする闘争となる。
 そこから、日本精神の本質について、同書はこう本質に肉薄してゆく。
 我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。西洋諸国の国民性や国家生活を形づくる根本思想である個人主義自由主義等と我が国の精神文化との相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであって、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。
 そして、国家国体の神髄が家族国家にあることへ、記述は切りこんでゆく。
 我が国は、皇室を宗家として奉り、天皇を古今に亙る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。ゆえに国家の繁栄に尽くすことは、即ち天皇の御栄えに奉仕することであり、天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し国の隆昌を図ることに外ならぬ。
 ことばづかいが古く大仰だが、のべていることはじつにまっとうで、日本という国は一家のようなものなので、家の主としての天皇を中心として、臣民が一体となって、この国を支えていこうという諏意である。 

 マッカーサーが愕然とした『天皇家族国家』論
 天皇や国体をまもるために国民が命を捧げるという発想は、かつてのGHQの発想である。したがって、天皇人間宣言をすれば、日本人は、ダーウインの進化論にめざめて、天皇排除にうごくはずだった。
 ところが、天皇人間宣言をおこなって全国巡幸をされると、日本人はこれを熱烈に歓迎して、46都道府県の行幸中、じかに国民にふれた8年間にただの一度の不祥事もなかった。
 マッカーサーは、天皇にたいする日本人の感性に愕然とした。
 革命や敗戦でドイツ王室(1918年ヴィルヘルム2世退位)やイタリア王室(1946年ムッソリーニ虐殺後、ウンベルト2世亡命)は滅びたが、日本の天皇は、日本が戦争に負けた後も国民から絶大なる尊敬をえていたのである。
 天皇の戦争責任を問う声もおきなかった。「天皇に戦争責任があるなら真珠湾攻撃成功で提灯行列をしたわれわれも同罪だ(林房雄大東亜戦争肯定論』)という意識がはたらいたからで、天皇は、スターリンヒトラーらのような権力者ではなく、日本という家のあるじだったのである。
『国体の本義』が昔の日本人にうけいれられたのは、人間は、個人ではないという哲学が理解されたからである。父は妻子のために働き、母は夫や子のために身を粉にするという人間の営為が、天皇を家主とする国家のシステムにとりいれられて、人間は、ようやく、孤独や生の絶望から解放される。
 日本人は、天皇を〝国家の父〟と見ることによって、人間らしく生きることができたのである。 

 ●孤独と破滅の論理だった西洋的な個人主義 
 元SMAPのメンバー中居正広は、独身にして数十億円の資産をもっているといわれる。
 そのため、結婚して離婚した場合、財産を半分もっていかれるという恐怖心が立って結婚できないという。
 理由はそれだけではない。ネットの情報を集約すると「女性と一緒にいてもシアワセをかんじない」「女性をシアワセにしたいとは思わない」「結婚すると自由がなくなる」「じぶんの家に他人がいることが不快」など結婚しない理由は多々あるという。
 これが独身主義のモデルとされる個人主義の欠陥で、集団性を捨て去ったところで、最後に訪れるのが孤独死である。
 西洋で、個人主義が発達したのは、キリスト教の影響で、神とむきあうのは個人である。個人は、本質的に孤独なので、神とむきあうほどに孤独がつのって、最後には、徹底的に孤独なって、その絶望から、革命で体制をぶち壊したくなってくる。
 17歳の移民少年の射殺に抗議するフランスの大暴動が、日本で考えられもしないのは、日本の集団性には、問題を解決する手立てがいくらでもあるからである。
 だが、個人主義の西洋には、破壊以外、方法がない。
 日本が、個人(あるいは私)であることを避けて、他者や親族、同一民族とともにあろうとうするのは、それが人間の生きる唯一の方法だったからで『国体の本義』は、生きる哲学でもあったのである。
 キリスト教個人主義に洗脳されている日本人ほどぶざまなものはない

実録・戦後日本と昭和政治史3

 国益主義の保守政治、理念主義の革命政治
 フランスのド・ゴール大統領は「政治が最終的にもとめるものは国益だ」と喝破した。
 日本の政治も国益型だったが、これに理念型がくわわったのは、明治維新薩長政府が西洋化政策をとったからだった。
 国益の他に文明化や近代化などの新たな価値がでてきて、政治が国益をもとめる実益型と、理想を追求する理念型へと二分されたのである。
 ヨーロッパで、その契機となったのが革命だった。国家を運営する現実政治が、個人の理想を実現するユートピア思想にすげかえられたのである。
 それまで、人々は、全体の利益は個の利益につながる、あるいは個の利益の総和が全体の利益であるという神話を素朴に信じていた。
 その神話を裏切ったのは、絶対王政専制政治宗教戦争だった。
 これらの乱世の構造は、人民(個人)にとって過酷なものだった。
 全体の利益と個の利益が、調和どころか、断絶していたのは、人民と国家の関係が「個と全体」の関係と同様、矛盾していたからである。
 じじつ、国家は強大で、一方、個人は、弱小で無力だった。
 したがって、個人が体制をひっくり返すなどというだいそれたことを考えるものは一人もいなかった。
 ところが、17世紀になって、人類は、価値観と思想の大転換をおこなって歴史改造という世紀の大事業にのりだしてゆく。
 革命である。議会派のクロムウェルが国王チャールズ1世を処刑したイギリスのピューリタン革命(1649年)にはじまって、英国から独立して平等や自由、基本的人権や民主主義などの観念のもとで国家をつくりあげたアメリカ革命(1776年)、ブルボン絶対王政を倒して、ロベスピエールの恐怖政治やナポレオンの軍事独裁をまねいたフランス革命(1789年)などの一連の出来事がそれで、これらのブルジョワ革命が産業革命をともなって、近代という新しい時代の幕が切って落とされる。

 ●革命と帝国主義、世界大戦~動乱の20世紀
 第一次世界大戦(1914年)後のロシア革命(1917年)や東欧の社会主義化、第二次大戦(1939年)後の中国や北朝鮮の誕生など、20世紀は革命と世界戦争の世紀となったが、そのタネをまいたのは、革命だった。
 革命からうまれたのは、人間が尊重される理想郷ではなかった。個人を一般化した国民主権のもとに打ち立てられたのは、帝国主義植民地主義で、第一次世界大戦は、帝国主義化した国々が植民地を奪い合った末の大殺戮戦だった。
 革命によって、強固な国家ができあがったが、一方、徴兵令によって戦場にかりだされる個人は、国家のために命を捨てる弱い存在でしかなかった。
 個が体制を転覆させた革命も、結局、個にはなんの恩恵もなかったのである。
 国家権力を民衆の手にとりもどすのが革命だが、民衆(個人)には、全体をコントロールする能力がそなわっていない。エゴがはたらくからで、ヒトラースターリンも、毛沢東ルーズベルトも、個人の限界や欠陥をもった不完全きわまりないリーダーだった。
 そもそも、エゴをひきずる人間は、共同体の指導者にはなれない。
 例外が日本の天皇で、無私の天皇の権威が日本という国家の礎となった。
 日本は、万世一系の皇統が知ろしめす国体という原理をあみだして、これを国のかたちとしたのである。。
 前大戦の終戦交渉で、日本が国体護持に固執したのは、国体を失えば、国が亡びるという危機感があったからだった。山本峯章はこういう。
「日本は、歴史上、革命を経験したことがない伝統国家で、その象徴が天皇である。天皇は、歴史という観念上の存在で、それが万世一系という現実世界とかさなりあって、数千年にわたってつづいてきた。国体護持というのは、文化防衛で、その文化には、縄文時代から現在へといたるあらゆる叡智がつまっている。西洋の文明は、合理性だが、合理にはかならず反合理があって、破綻がまっている。たとえば、多数決だが、多数決は、合理的な方法だが、少数派の切り捨てという不合理をもっている。日本には、談合の文化があって、調整をおこない、不満を最小限におさえる。アメリカ人的にいえば不正の温床ということになるが、このユルミやあいまいさを容認しなければ、社会は荒廃する。その結果、勝つものは常に常勝で、負ける者はいつまでも負けつづけるという新自由主義的な不条理がうみだされる」

 ●伝統破壊にむかう革命勢力といかにたたかうか
 第二次世界大戦は「革命国家」群と「権威(伝統)国家」群の戦争だった。
 だが、革命と大戦の時代のさなかにあった当時、世界の大多数が革命国家で伝統国家は、少数派だった。
 したがって、戦争に負けた日本は、戦勝国によって国家を解体される危機にさらされた。
 事実、中国革命や朝鮮戦争、米ソ冷戦がなかったら、日本は、連合軍の手によって、共和国へと改造されていたであろう。
 戦後、共産主義の脅威は、むしろ増していた。コミンテルンの魔手が迫っていたばかりか、GHQが共産主義に洗脳されていたからで、マッカーシー旋風や共産主義者取締法(1954年)がなかったら、当のアメリカすら共産党におびやかされていたかもしれなかった。
 戦後、コミンテルンの支援によって、中国や北朝鮮が建国したが、日本共産党も、1922年、コミンテルン日本支部として発足、労働・組合運動の高揚とあいまって、日本のいたるところで、赤旗がひるがえった。
 当時の共産主義にたいする警戒感をしめすエピソードに木村篤太郎の〝反共抜刀隊〟構想がある。
 木村は、防衛庁長官(初代)や法務大臣(初代)のほか検事総長第一東京弁護士会会長を歴任した大物政治家だが、法務総裁・法務大臣時代、日本共産党の暴力革命への懸念から自ら破壊活動防止法案を提出、成立させている。
 その木村が、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に「反共行動部隊」の編成をもちかけている。
 いかに日本が共産主義の危機に脅かされていたかを物語るエピソードである。
 マルクス主義一色だった日本で革命がおこらなかったのは、天皇が存在したからで、日本共産化の危機を救ったのは、昭和21年から昭和29年まで8年半をかけて46都道府県を行幸された昭和天皇の全国巡幸であったろう。
 逆にいえば、天皇行幸がなければ、革命の機運はさらにましていたはずである。
 次回以降も、ひきつづき、戦後の共産主義の猛威についてのべる。

実録・戦後日本と昭和政治史2

 ●日本保守主義の原点は三宅雪嶺国粋主義
 日本の政治思想の原点を、明治の精神にもとめると、徳富蘇峰三宅雪嶺の名が挙げられる。
 中学生の近現代史の参考書には、この二人のほかに、幸徳秋水高山樗牛、そして、鹿鳴館文化の井上馨の名が記されている。
 徳富蘇峰は、平民主義を唱えて『国民之友』を刊行、三宅雪嶺国粋主義を立てて『日本人(のちに日本及び日本人)』発行したとある。
 この二人につづくのが、社会主義幸徳秋水と日本主義の高山樗牛で、それぞれ『平民新聞』と『太陽』を出している。
 徳富蘇峰三宅雪嶺幸徳秋水高山樗牛が、新聞や雑誌で啓蒙運動をおこなって、ヨーロッパ化をおしすすめる長州閥や薩摩閥に対抗したのが明治から大正、昭和初期における日本の政治状況で、そのあたりの経緯が『続日本政治思想史(広岡守穂/有信堂)』につぶさに描かれている。
 明治維新以降、日本の政治は、西洋と日本の〝文明の衝突〟という様相をていしながら、たえまなく、文化闘争(革命)をくりひろげてきた。
 西洋の権力や革命、帝国主義や民主主義と、日本の権威や維新、共栄思想や民本主義(君民共治)が、ときには迎合、ときには敵対して、明治以降の政治状況をささえてきたのである。
 山本峯章は、プロイセン憲法をコピーだった明治憲法(1889年)が、それから56年後の第二次大戦の敗戦(1945年)における国体の危機をまねいたという。
 天皇を元首にすえたことによって、権威(=天皇)と権力(=武士)の二元論だった日本の国体が崩壊して、日本は、西洋のような一元論の国になったというのである。
 軍隊をもたない天皇は、歴史上、権力だったことはなかった。
 だが、徴兵令によって、国民が天皇大元帥)の兵卒となるや武士が武人としての特権を失った。その武士が一斉蜂起して「士族反乱佐賀の乱秋月の乱萩の乱西南戦争)」がひきおこされた。
 西郷隆盛が、西南戦争に敗れることによって、日本は誇り高き武士の国から心貧しい小市民の国になってしまったというのである。
 ●かつて日本には保守陣営の言論の場がなかった
 佐伯啓思が『20世紀とは何だったのか(PHP研究所)』で、オルテガニーチェを引用して、同じようなことをいっている。
 品格のある武士(貴族)が没落して、平凡で、無力さを売り物にする大衆が台頭してきて、社会が、下品さや狡猾さ、アンモラルが支配するところのものなったというのだが、これは、オルテガの研究者だった西部邁の持論(衆愚論)でもあった。
 西洋化に対抗したのが「国粋主義」の三宅雪嶺で、欧化的平民主義を唱えた徳富蘇峰がのちにこれに合流、日本主義の高山樗牛、反欧化主義の陸羯南らがくわわって日本民族派というべき思潮をつくりだされた。
 山本峯章は、のちに児玉誉士夫の後継者になる西山幸喜とともに日本新聞社から三宅雪嶺の『日本及び日本人』の版権を買い取っている。
 編集にあたったのが産経新聞出身の栗原一夫、田辺信夫らで『日本及び日本人』は、日本新聞社、日本及日本人社、J&Jコーポレーションと版元を変えて2004年1月(通巻第1650号)まで発行された。
 その後、山本は、中川一郎(のちの農林大臣)とともに「国民討論会」を主宰して、多くの保守系言論人をまねいている。
 多くが「日本文化会議」のメンバーで、数年後の1969年創刊の文藝春秋オピニオン誌『諸君!』の執筆陣とも重なる。
「国民討論会」に、三島由紀夫黛敏郎藤島泰輔ら多くの保守論客が招かれたが、福田恒存会田雄次猪木正道高坂正堯小林秀雄林健太郎村松剛ら日本文化会議のメンバーも有力な候補者であった。
 当時、日本の思想界・学術界は、朝日・岩波が象徴するマルクス主義一色で、保守系の論者が意見を発表する場はほとんどなかった。
 日本の思想界がこのような地盤沈下をおこしたのは、敗戦によって、日本の主権が奪われたからだった。
 ●主権喪失の悲哀を味わった鳩山一郎公職追放
 徳富蘇峰は1945年にA級戦犯に指定されて(不起訴)のちに公職追放を受けている。
 三宅雪嶺は、終戦の年に亡くなっているが、存命だったら、蘇峰以上に手厳しい仕打ちをうけていたはずである。
 戦争に負けるということは、土着の文化や価値、宗教観が外来の文明に打ちのめされることでもある。
 終戦から40日しかたっていない45年10月4日、GHQは日本政府にたいして治安維持法特別高等警察特高)などの廃止、内務大臣や警保局長、警視総監、各道府県警察部長(本部長)、特高全職員らの罷免を命じた。
 これにより、内相や内務省の警察の首脳、特高職員ら約6000人が一斉に辞めさせられた。職業軍人をはじめ高級官吏や政党・言論界・経済界などの指導者や長と名のつくものはすべて公職追放によって、職場や地位を失った。
 さらに、天皇マッカーサーの新聞写真を発禁処分にしようとした内務省にGHQが激怒、当時、最有力の官庁だった内務省はGHQににらまれてやがて解体される。
 次期首相がきまっていた自由党鳩山一郎総裁が組閣直前の1946年5月に、突如、GHQから公職追放された。GHQのこの「公職追放」に、多くの国民が敗戦国の悲哀と屈辱をつくづく味わったものだった。
 1946年1月1日、昭和天皇は「詔書」を発表して、現人神であることを自ら否定(「人間宣言」)したが、同年1月4日、GHQから日本政府に「公職追放令」(第1次)が通達されて、47年には、財界・言論界などへも該当者の範囲が広がって、48年5月までに20万3660人が追放された。
●『閉ざされた言語空間』GHQプレスコード
 追放の該当者はA項の戦争犯罪人、B項の陸海軍軍人、C項の超国家主義や暴力主義者からG項まであって、問題なのがこのG項だった。追放者の範囲を広げるためにGHQが考案したもので、首相になる鳩山一郎石橋湛山ら大物政治家らもG項該当者として、理由もなく、次々と追放されることになった。
 日本のパージ政策は、非ナチス化政策をモデルとしたもので、ドイツにおいては、ナチス党員らに重労働、財産の没収、市民権の剝奪など刑罰的な制裁を科したが、日本では、刑罰的な制裁の代わりに職業の剥奪という社会的制裁が科せられた。しかも、日本特有のG項があるため、多くの日本人は、脅えつづけねばならかった、
 日本の文化と思想を殲滅するための言論統制も周到なもので、江藤淳は、これを『閉ざされた言語空間』と呼んだ。新聞などの報道機関はもちろんのこと個人の手紙に至るまで検閲がおこなわれたが、実際に検閲作業をおこなったのは5000人にのぼる日本人スタッフだった。
 言論統制(「プレスコード」は30項目にもおよんだが、主だったものは以下である。
 連合国軍最高司令官や総司令部への批判/占領軍への批判/極東国際軍事裁判の批判/GHQが日本国憲法を起草した事に対する批判/検閲制度に対する言及/米国、ソ連、英国および連合国の批判/中国、朝鮮への批判/満州での日本人への処遇に関する批判/戦争擁護、神国日本、軍国主義の宣伝/ナショナリズム大東亜共栄圏の宣伝/戦争犯罪人の正当化/闇市や飢餓に関する報道/占領軍兵士と日本人女性の関係に関する報道/原爆や大空襲に関する報道/進駐軍による犯罪行為
 日本のマスコミは、GHQのPR局だったわけだが、戦後日本の社会構造がGHQ寄りになったのは、マスコミだけではない。
 官僚や法曹、左翼も、国益など眼中になく、じぶんの利益になるほうになびくという売国奴的になってくるのも敗戦国の性で、渡部昇一は、これを「敗戦利得構造」と断じた。
 次回以降は、政治と国益というテーマについて、山本峯章のインタビューを交えてつたえる

実録・戦後日本と昭和政治史

 

 

 昭和史に残る政治と事件の舞台裏/「山本峯章ノート」から
 実録・戦後日本と昭和政治史1
 はじめに/政治の大動乱期だった昭和という時代 
 戦後から昭和にかかる半世紀の日本の政治は、平成令和の現代からは想像もつかない動乱期だった。日本は、世界戦争とその敗戦をへて、アメリカによる占領と独立、ソ連共産主義運動と中国革命、朝鮮戦争と米ソ冷戦という日本史上、空前絶後の危機の時代をつきすすんできた。
 危機の構造は、体制の危機でもあって、戦後、日本が、国家解体の危うきに瀕したのは、第二次世界大戦の性格上、いわば、必然的なりゆきだった。
 日本がたたかった英米旧ソ連、中国は、革命国家で、第二次大戦は、伝統国家と革命国家、あるいは、権威主義国家と民主主義国家の戦争という様相を呈して、勝利を収めたのは後者だった。
 したがって、敗戦国は、国家解体を迫られて、事実、ドイツは、東西両陣営による分割統治となった。
 日本が分割統治にならなかったのは、コミンテルンソ連共産主義運動)による中国革命と朝鮮戦争があったからで、アメリカ(GHQ)は東条英機ら戦争指導者7人を死刑にしたが、戦争の最高責任者天皇の戦争責任は問うことなく、国体も残した。
 そればかりか、旧ソ連や中国、北朝鮮に対抗させるべく、再軍備と日米軍事同盟をすすめて、旧ソ連の反対を押し切って、日本を独立させた。
 だが、戦前の日本は、ほぼ跡かたなく壊滅して、戦後日本は、容共GHQの息のかかった二流、三流の日本人、渡部昇一が「敗戦利得者」と呼んだ左翼と平然と祖国を貶める反日的な日本人が支配する国になっていた。
 決定的だったのは、20万人にものぼるすぐれた日本人を要職から追放した「公職追放令」と軍国主義の排除や国家神道の廃止を目的とする「神道指令」で、この2つのGHQ令が、事実上、日本にたいするアメリカ属国化のくびきとなった。
 公職追放令によって、各界で指導的立場にあった保守層が追放されて、教育界やマスコミ、言論界や大学など、知識層といわれる分野でマルキストが爆発的に増え、労働組合員や市民運動家などいわゆる左派勢力や共産主義者が大幅に伸長することになった。

 ●日本左傾化の元凶だったGHQ民政局とコミンフォルム
 背景にあったのは、GHQ民政局のニューディーラー(社会民主主義者)の容共政策とソ連コミンフォルムコミンテルン国際共産主義運動)の活動だった。コミンフォルムの支援で、1948年に北朝鮮共産主義国家として独立宣言すると、翌1949年、毛沢東主席と周恩来首相の中華人民共和国が誕生する。
 コミンテルンの日本支部として、日本共産党が誕生したのが、その27年前の1922年だった。1950年、その日本共産党コミンフォルムの批判をうけいれて、武装闘争(「1951年綱領/四全協」)へ路線を変更した。
 山村工作隊や警察襲撃、トラック部隊(金品強奪)、血のメーデー事件(1952年)などがそれにあたるが、武力闘争は、国民から見捨てられる(第25回衆議院選挙候補者全員の落選/1952年)。
 1950年、北朝鮮が韓国に侵略すると、極東米軍、追って、中華人民共和国が参戦して、泥沼の朝鮮戦争は、50年の休戦まで、結局、3年間の長きにわたって膠着状態が続く。
 1950年、マッカーサー指令によって日本で警察予備隊が発足、4年後の1954年に自衛隊が創設される。
 警察予備隊が編成されたのは、アメリカが在日米軍朝鮮半島に送りこんだため日本の防衛・治安がガラ空きになったからで、自衛隊創設は、アメリカが対ソ冷戦や中国対策に日本の地政学的優位性や日本の軍事力を必要としたからだった。
 1945年にルーズベルトが死去すると、数年後、アメリカでマッカーシー旋風(反共運動)が吹き荒れる。コミンフォルムの影響をうけていたニューディーラーが一網打尽になって、アメリカで、反共主義が国是となるのである。
 1948年のベルリン封鎖を境にして、GHQの占領政策が大きく変化したのも、アメリカにとって、敵は、日本の権威主義や伝統主義ではなく、ソ連や中国の共産主義とようやく気がついたからだった。
 だが、日本のマスコミは、これを批判的に「逆コース」と呼んだ。
 共産主義革命にむかう流れが順コースで、革命から遠ざかるのが逆コースという理屈である。このことからも、日本のマスコミがいかに左翼びいきかわかろうというものである。

 ●GHQ民政局に一撃をくわえた反共主義者、三浦義一
 日本で、戦後、左翼が復権したのは、マッカーサー元帥が最高司令官をつとめた連合国軍の総司令部(GHQ)がルーズベルト政権の息がかかったニューディーラーばかりだったからである。
 その傾向が顕著だったのが、憲法改正神道指令、公職追放令など社会民主主義的な対日政策をとってきた民政局だった。その民政局を仕切っていたのが局長のホイットニーとケーディス次長で、日本国憲法の制定では、この2人がGHQ草案の中心的役割を担った。
 民政局と対立していたのが参謀第2部の部長だったウィロビーで、敗戦国の指導者だけを裁く東京裁判に批判的な正義感のつよい人物だった。
 マッカーサーの片腕と呼ばれたウィロビーは、東京裁判に反対しただけではなく、日本の文化や伝統を尊重する保守主義者で『ウィロビー回顧録/GHQの知られざる諜報戦』は名著の評が高い。
 参謀第2部のウィロビーはハンサムで男らしい風貌だったが、民政局のケーディスは細おもての顔立ちで、女に弱かった。このケーディスの追い落としにうごいたのが尊皇思想家の三浦義一だった。
 三浦とウィロビーが同志的な関係にあったのは、ウィロビーは国務省共産主義の脅威をうったえて「占領軍のマッカーシー」とまで呼ばれた反共主義者で、三浦とは思想が共鳴した。
 ウィロビーは、ケーディスを倒すために三浦を利用したが、三浦も、政財界への影響力をつよめるためにウィロビーを利用した。金銭のやり取りも約束もなかった。あったのはあうんの呼吸で、三浦が女性スキャンダル(鳥尾鶴代子爵夫人との不倫)を暴いてケーディスを追い落としても、ウィロビーから一言もなかった。だが、ウィロビーは、ひそかに三浦を支援した。三浦のバックにマッカーサーの片腕ウィロビーが控えていて、日本の政財界が震えあがらないわけはなかった。
 若き日の山本峯章と三浦義一のえにしは浅くない。西山広喜が、三浦義一が再建に尽力した「日本政治文化研究所」の理事長に就いたからで、西山と山本は、三浦の門下生同士の関係にあって、この関係は、三浦が亡くなる昭和46年までつづいた。

 ●『日本及日本人』からはじまった保守言論界の反撃
西山は、昭和40年、日本新聞社から『日本及日本人』の版権を譲り受けて復刊、再刊にあたった。このとき、営業販売にあたったのが、同社役員の山本峯章、編集は、産経新聞OBの栗原、田辺らで、発送業務を担当したグループに三島事件で三島とともに自決した森田必勝がいた。
「日本及日本人」は、明治40年、三宅雪嶺らによって刊行された国粋主義的な評論集で、戦後、1950年に日本新聞社によって復刊された版権を西山が買い取ったのだった。ちなみに、姉妹誌「日本」の版権は講談社が取得している。
「日本及日本人」の執筆陣は、林房雄保田與重郎、御手洗辰雄、村松剛黛敏郎三島由紀夫錚々たる顔ぶれで、当時、保守系オピニオン誌は他に例がなかったこともあって、思想界から注目を浴びた。
 文藝春秋社『諸君!』の創刊が昭和44年で「日本及日本人」の4年あとである。『諸君!』は保守系団体「日本文化会議」の機関誌『文化会議』を月刊化したもので、当時、社長(三代目)だった池島信平は、新潮社も刊行に興味をもっていることを知って刊行をきめた。
 レギュラー執筆者は、福田恆存三島由紀夫小林秀雄会田雄次林健太郎江藤淳村松剛山本七平渡部昇一西尾幹二平川祐弘小堀桂一郎入江隆則田久保忠衛らと多彩だが、そのなかに、岩波文化人として知られる清水幾太郎がいる。
 編集会議で部員が清水幾太郎の名をあげたとき、池島信平田中健五編集長は「バーカ。清水幾太郎が文春に書くわけないだろう」と言ったが、当たってみると清水はあっさり引き受けた。清水も、思想的な転換期にあって、新しい執筆場所を探していたのだった。
 清水の核武装論(「核の選択―日本よ国家たれ」)が掲載された昭和55年の7月号は話題になって3万2000部を売り切ったが、これは平月よりも1万部多かったという。
『諸君!』に続いて『正論』『Voice』『WiLL』などの保守系オピニオン誌が刊行されて2016年から『Hanada』がくわわったが、肝心の『諸君!』は2009年6月号を最後に休刊している。

 ●「月刊グローバルアイ」誕生に至る経緯と人脈
 当時、千代田区紀尾井町文藝春秋と細い道を一本隔てた千代田区平河町にゆまにて出版という小さな出版社があった。筆者は、そこから『小佐野賢治の着眼』という本をだしてもらって、10万部のベストセラーに(1984年)なった。
 編集長が奥沢邦成で、奥沢は、のちにぱる出版を設立、現在、社長を退いて会長に就いている。
 当時、奥沢も筆者も若く、ゆまにて出版の〝実録シリーズ〟は、奥沢の発案で、筆者が編集執筆にあたった。これについて、のちにのべるが、奥沢がめざしたのはマガジン的な要素をもった単行本だった。
 ぱる出版を設立した奥沢は、1996年、筆者に、情報誌(月刊グローバルアイ)の編集人を申しつけて、そのとき、こうくわえた。
「主幹に山本峯章先生を迎えたいが、いっしょに頼みに行ってくれないか」
 山本峯章は、主幹の依頼を快諾、月刊グローバルアイは、1996年4月にスタートして、2004年6月の最終号まで通巻99号、延べ8年にわたって休みなく刊行されることになる。
 そのかん多くの出来事や事件があったが、それは、本文で追って述べてゆくことにして、月刊グローバルアイ以前の奥沢と筆者、そして、からだを張って政治の世界をとびだしていった山本峯章のうごきをもうすこし追っていこう。
 奥沢に山本峯章を引き合わせたのは筆者で、筆者が、山本峯章を知ったのは、日新報道の遠藤留治社長の口からだった。日新報道には『創価学会を斬る!(藤原弘達)』や『日本人に謝りたい/あるユダヤ人の懺悔(モルデカイ・モーゼ』などのベストセラーや良書があって、筆者は、同社から、リライトなどの仕事をえていた。
 山本峯章は日新報道から何冊かノンフィクションをだしていて、そのなかに『国益を無視してまで商売か―日商岩井/海部メモ流出の裏側』(1980年)というのがあって、同書の目次「島田常務〝謎のボストンバッグ〟」に関心が集まっていた。

 ●ダグラス・グラマン疑惑と赤坂山本峯章事務所
『海峡を越えた怪物―ロッテ創業者・重光武雄の日韓戦後史(西崎伸彦/小学館)』にこういう記述がある。
 政財界の表裏に精通する政治評論家の山本峯章の赤坂の事務所には、以前から新聞や週刊誌の記者が情報を求めて出入りしており、1976年のロッキード事件以降はその頻度も激しさを増していた。当時、特ダネを求めた記者たちが血眼になって追っていたのが、ダグラス・グラマン疑惑だった。ロッキード事件は民間旅客機の日米商戦の舞台裏を暴きだしたが、ダグラス・グラマン疑惑では、軍用機の売り込みで、政府高官に多額の賄賂が渡っているとの疑惑が浮上していた」
 ダグラス・グラマン疑惑の核心は〝海部メモ〟で、海部メモは、山本峯章の手から世に出ることになるが、その経緯や詳説は本編に譲る。
 筆者も、田中角栄無実論『だれが角栄を殺したのか』や『財界にいがた』に連載した「角栄は日米の謀略にハメられた(単行本タイトル『角栄なら日本をどう変えたか』)」(以上2点光人社/1997年)を出しているので、ダグラス・グラマン疑惑に関心があった。
 その関心も、ロッキード事件で火のように燃えた検察が、ロッキード以上の事件性をもったダグラス・グラマン疑惑にたいしてなぜかくも消極的だったのかという点にあった。
 山本峯章から電話があって、田中角栄の秘書、榎本敏夫が、インタビューですべてを語るといっている。いっしょに来てくれというもので、筆者は、この榎本インタビューで、それまでの疑問点がいっぺんで氷解する決定的な言質をえるのだが、それも、詳説は本編に譲る。
 話は日新報道の遠藤社長の話にもどる。遠藤は山本峯章を立てて『北方領土の真実』という本を出したい腹のようで、筆者に、こんな話をふってきた。
「山本峯章の行動力はケタ外れで、アメリカが日本のからとりあげた千島列島に歯舞群島色丹島国後島択捉島北方四島は入っていない、その言質をとるために、カーター大統領への質問状をもってアメリカに飛んだ」
「会えたのですかカーター大統領に」
「すでに質問状を送っているので、パーティ会場で握手をしてきたという」
「日本はサンフランシスコ条約で千島列島を放棄したじゃないですか」
「日本が返したのは、樺太・千島交換条約によって日本領に確定したシュム島からウルップ島までのクリル列島だと山本さんはいっている」
「北方4島は千島列島ではなかったのですか?」
「詳しいことは会って聞いてみることだね」
 日新報道から『北方領土の真実』は実現しなかった。1977年、山本みねあきのペンネームで、思想評論社からすでに「島は還らない/歴史・条約上の根拠とカーター大統領への便り」がでていたからである。
 その後、河野一郎の裏切りの日ソ漁業交渉(1956年)から田中角栄の日ソ共同声明(1973年)、ゴルバチョフ大統領の日ソ共同声明(東京署名/1991年)、エリツィン大統領の日ソ共同声明(東京宣言/1993年)と、北方領土問題は、紆余曲折をたどるが、これらについても、詳説は本編でふれる。
 山本峯章は、1992年以降、ぱる出版から『佐川急便の犯罪』『富士銀行の犯罪』などの告発モノや『経済改革の決断』『自民党崩壊す』などの政経モノを出版したあと、1996年、満を持して、月刊グローバルアイの主幹をひきうける。

 ●山本峯章の保守言論人としての原点
 話はもとにもどって、奥沢と筆者の出会いである。
 ゆまにて出版の編集部が立てた実録シリーズは次の三本だった。
 実録・今上天皇天皇裕仁と激動の昭和史 
 実録・戦艦三笠―日露戦争日本海海戦
 実録・徳川家康―戦国覇者がたどった波乱の生涯
 奥沢と打ち合わせて、実録・今上天皇には、戦記作家の児島襄、実録・戦艦三笠には、脚本家の笠原和夫、実録・徳川家康には、歴史学者桑田忠親の監修をえるべく交渉にあたった。
 児島襄は『太平洋戦争』で第20回毎日出版文化賞をえた戦記作家の泰斗で『戦艦大和』、『日露戦争』、『日本占領』、『講和条約』、『東京裁判』『山下奉文』『マニラ海軍陸戦隊』『インパール征討作戦』『硫黄島戦記』などのほか大著に『天皇』があった。
 児島は「監修はやらない主義だ」といって、代わりに、作家で、明仁天皇の学友だった藤島泰輔を紹介してくれた。
「女房がジャニーズ事務所メリー喜多川だ。稼ぎがいいから監修など面倒なことはひきうけてくれんかもしれんがな」
 だが、藤島は監修をひきうけると、その場で弟分の加瀬英明に電話で原稿を頼んでくれた。藤島は、評論家としては、大宅壮一の門下生で『文藝春秋』や『諸君!』などで健筆をふるっていた。
 推薦してくれたなかに入江隆則がいた。明治大学教授で『幻想のかなたに』で亀井勝一郎賞を受賞した思想家でもあった。『諸君!』『正論』の常連でだれもいいだせない核武装論を主張する豪胆な知識人でもあった。
『実録・今上天皇』における執筆者は6人になった。
 藤島泰輔/私の皇室論
 桑田忠親/現人神と人間の天皇
 西尾幹二/ヨーロッパの王朝と日本の天皇
 伊達宗克(「NHK特集 皇居」プロデューサー)/天皇制と〝善〟のすすめ
 入江隆則/抑制の制度としての天皇
 加瀬英明天皇パワーに魅せられたジョン・レノン
 藤島は「監修のことば」でこう記した。
「幸いに、あらゆる角度において秀れた執筆陣を得て、天皇論として、屈指の内容になった。(中略)読者の方々にもまた歴史をつたえる語り部になっていただきたいと思う次第である」
『実録・戦艦三笠』の監修をひきうけてくれた笠原和夫東映の大作『日本海大海戦海ゆかば』をてがけたほか『二百三高地』や『大日本帝国』で日本アカデミー賞の優秀脚本賞を受賞した脚本家で、大ヒット作『仁義なき戦い』で、名声をえていた。
 笠原から「戦争は巨大な生き物で、指先の毛先の穴に至るまで心臓の動脈に直結して呼吸している。ゆるがせにしていいものは一つもない(後略)」という監修のことばもらったが、藤島からも「日露戦争を戦った武士たち」と題する名文が寄せられた。
『実録・徳川家康』では、筆者が歴史ストリーを書き、監修の桑田忠親と作家の南条範夫、歴史学者の小和田哲夫という日本の歴史家ビッグ3が名文を寄せて、編集長の奥沢は満足げだった。おまけに、同年のNHK大河ドラマが「徳川家康」だったこともあって、ベストセラーとなった。この実録シリーズが山本峯章の天皇や保守の精神とつうじあっているのは、実録シリーズの精神や人脈が月刊グローバルアイや山本の言論活動をささえてきたことと無縁ではない。

 ●政治思想と現実政治の大きなギャップ
 ところで、実録・今上天皇で監修をひきうけた藤島泰輔と、月刊グローバルアイの監修をひきうけた山本峯章は、奇妙な偶然の一致がある。
 藤島は、参院選(第11回参院選/1977年)、山本は、衆院選(第34回衆議院/1976年)のちがいはあるが、同時期、ともに国政選挙に出馬して、ともに、惜敗していることである。
 次回は、山本峯章が、政治評論家としてスタートする契機となった選挙戦の顛末にふれる。