実録・戦後日本と昭和政治史4

 ●戦後、失われた「国体」と「臣民」という文化構造
 2008年、わたしは村上正邦佐藤優の共著で『情の国家論』を上梓したが、その7年後、佐藤優から新刊が送られてきた。『日本国家の神髄』と題名にあるように、国体論で『情の国家論』でもとりあげた大テーマでもあった。
 序章で佐藤はこう記している。
 国体を構築することはできない。国体は発見するものである。日本の伝統において「目に見えない憲法」が存在している。(中略)政治のエリートが理想にもとづいて憲法を構築するという発想はわが国体に合致しない。人間の理性にもとづいて、理想的な社会や国家を構築できるという発想は、フランス革命の左翼の発想である。左翼は、人間に理性がそなわっているとする。したがってその理性にしたがって、理想的な社会をつくることができると考える。
 一方、右翼は、人間の理性に限界があると考える。(中略)理性の限界の外においてこそ、人間の真価があらわれる。わたしの立ち位置は右翼だが、国体を肌でかんじることができる者が右翼なのである。
 佐藤は、理性主義に対立するものとして『国体の本義』を挙げたが、戦後のGHQの思想弾圧によって『国体の本義』と姉妹編の『臣民の道』は、完全に抹殺された。
 そして、GHQの洗脳プログラムにのった『未完の敗戦(なぜこの国は人を粗末に扱うのか?)』のような反日本がベストセラーになる始末である。著者の山崎雅弘はこういう。「『国体の本義』が個人を全否定したのは、国民を個人とみなすと、天皇や国体をまもるために国民が命を捧げるという全体の関係性が崩壊してしまうからである」
 戦後、80年近くになるというのにGHQの洗脳が解けないのは、憲法9条によって、GHQの洗脳教育が拡大再生産されているからで、ついに、国家のためにたたかわないことが正義という倒錯が現代の日本人の社会通念になってしまった。 

 個人主義自由主義の批判からうまれた『国体の本義』
『国体の本義』と『臣民の道』に書かれているのは、西洋的な個人主義自由主義の否定と「和の精神」にもとづく家族国家の高揚で、いわゆる日本主義のエッセンスである。
『国体の本義』にこうある。
 和の精神は万物融合の上に成り立つ。(中略)和は、我が肇国の鴻業より出で歴史生成の力であると共に日常離るべからざる人倫の道である。人々が自己を主として私を主張する場合には矛盾対立のみあって和は生じない。個人主義においては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、真の和は存しない。即ち個人主義の社会は、結局、万人の万人にたいする闘争となる。
 そこから、日本精神の本質について、同書はこう本質に肉薄してゆく。
 我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。西洋諸国の国民性や国家生活を形づくる根本思想である個人主義自由主義等と我が国の精神文化との相違は正にこゝに存する。我が国は肇国以来、清き明き直き心を基として発展して来たのであって、我が国語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出来る。
 そして、国家国体の神髄が家族国家にあることへ、記述は切りこんでゆく。
 我が国は、皇室を宗家として奉り、天皇を古今に亙る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である。ゆえに国家の繁栄に尽くすことは、即ち天皇の御栄えに奉仕することであり、天皇に忠を尽くし奉ることは、即ち国を愛し国の隆昌を図ることに外ならぬ。
 ことばづかいが古く大仰だが、のべていることはじつにまっとうで、日本という国は一家のようなものなので、家の主としての天皇を中心として、臣民が一体となって、この国を支えていこうという諏意である。 

 マッカーサーが愕然とした『天皇家族国家』論
 天皇や国体をまもるために国民が命を捧げるという発想は、かつてのGHQの発想である。したがって、天皇人間宣言をすれば、日本人は、ダーウインの進化論にめざめて、天皇排除にうごくはずだった。
 ところが、天皇人間宣言をおこなって全国巡幸をされると、日本人はこれを熱烈に歓迎して、46都道府県の行幸中、じかに国民にふれた8年間にただの一度の不祥事もなかった。
 マッカーサーは、天皇にたいする日本人の感性に愕然とした。
 革命や敗戦でドイツ王室(1918年ヴィルヘルム2世退位)やイタリア王室(1946年ムッソリーニ虐殺後、ウンベルト2世亡命)は滅びたが、日本の天皇は、日本が戦争に負けた後も国民から絶大なる尊敬をえていたのである。
 天皇の戦争責任を問う声もおきなかった。「天皇に戦争責任があるなら真珠湾攻撃成功で提灯行列をしたわれわれも同罪だ(林房雄大東亜戦争肯定論』)という意識がはたらいたからで、天皇は、スターリンヒトラーらのような権力者ではなく、日本という家のあるじだったのである。
『国体の本義』が昔の日本人にうけいれられたのは、人間は、個人ではないという哲学が理解されたからである。父は妻子のために働き、母は夫や子のために身を粉にするという人間の営為が、天皇を家主とする国家のシステムにとりいれられて、人間は、ようやく、孤独や生の絶望から解放される。
 日本人は、天皇を〝国家の父〟と見ることによって、人間らしく生きることができたのである。 

 ●孤独と破滅の論理だった西洋的な個人主義 
 元SMAPのメンバー中居正広は、独身にして数十億円の資産をもっているといわれる。
 そのため、結婚して離婚した場合、財産を半分もっていかれるという恐怖心が立って結婚できないという。
 理由はそれだけではない。ネットの情報を集約すると「女性と一緒にいてもシアワセをかんじない」「女性をシアワセにしたいとは思わない」「結婚すると自由がなくなる」「じぶんの家に他人がいることが不快」など結婚しない理由は多々あるという。
 これが独身主義のモデルとされる個人主義の欠陥で、集団性を捨て去ったところで、最後に訪れるのが孤独死である。
 西洋で、個人主義が発達したのは、キリスト教の影響で、神とむきあうのは個人である。個人は、本質的に孤独なので、神とむきあうほどに孤独がつのって、最後には、徹底的に孤独なって、その絶望から、革命で体制をぶち壊したくなってくる。
 17歳の移民少年の射殺に抗議するフランスの大暴動が、日本で考えられもしないのは、日本の集団性には、問題を解決する手立てがいくらでもあるからである。
 だが、個人主義の西洋には、破壊以外、方法がない。
 日本が、個人(あるいは私)であることを避けて、他者や親族、同一民族とともにあろうとうするのは、それが人間の生きる唯一の方法だったからで『国体の本義』は、生きる哲学でもあったのである。
 キリスト教個人主義に洗脳されている日本人ほどぶざまなものはない