実録・戦後日本と昭和政治史2

 ●日本保守主義の原点は三宅雪嶺国粋主義
 日本の政治思想の原点を、明治の精神にもとめると、徳富蘇峰三宅雪嶺の名が挙げられる。
 中学生の近現代史の参考書には、この二人のほかに、幸徳秋水高山樗牛、そして、鹿鳴館文化の井上馨の名が記されている。
 徳富蘇峰は、平民主義を唱えて『国民之友』を刊行、三宅雪嶺国粋主義を立てて『日本人(のちに日本及び日本人)』発行したとある。
 この二人につづくのが、社会主義幸徳秋水と日本主義の高山樗牛で、それぞれ『平民新聞』と『太陽』を出している。
 徳富蘇峰三宅雪嶺幸徳秋水高山樗牛が、新聞や雑誌で啓蒙運動をおこなって、ヨーロッパ化をおしすすめる長州閥や薩摩閥に対抗したのが明治から大正、昭和初期における日本の政治状況で、そのあたりの経緯が『続日本政治思想史(広岡守穂/有信堂)』につぶさに描かれている。
 明治維新以降、日本の政治は、西洋と日本の〝文明の衝突〟という様相をていしながら、たえまなく、文化闘争(革命)をくりひろげてきた。
 西洋の権力や革命、帝国主義や民主主義と、日本の権威や維新、共栄思想や民本主義(君民共治)が、ときには迎合、ときには敵対して、明治以降の政治状況をささえてきたのである。
 山本峯章は、プロイセン憲法をコピーだった明治憲法(1889年)が、それから56年後の第二次大戦の敗戦(1945年)における国体の危機をまねいたという。
 天皇を元首にすえたことによって、権威(=天皇)と権力(=武士)の二元論だった日本の国体が崩壊して、日本は、西洋のような一元論の国になったというのである。
 軍隊をもたない天皇は、歴史上、権力だったことはなかった。
 だが、徴兵令によって、国民が天皇大元帥)の兵卒となるや武士が武人としての特権を失った。その武士が一斉蜂起して「士族反乱佐賀の乱秋月の乱萩の乱西南戦争)」がひきおこされた。
 西郷隆盛が、西南戦争に敗れることによって、日本は誇り高き武士の国から心貧しい小市民の国になってしまったというのである。
 ●かつて日本には保守陣営の言論の場がなかった
 佐伯啓思が『20世紀とは何だったのか(PHP研究所)』で、オルテガニーチェを引用して、同じようなことをいっている。
 品格のある武士(貴族)が没落して、平凡で、無力さを売り物にする大衆が台頭してきて、社会が、下品さや狡猾さ、アンモラルが支配するところのものなったというのだが、これは、オルテガの研究者だった西部邁の持論(衆愚論)でもあった。
 西洋化に対抗したのが「国粋主義」の三宅雪嶺で、欧化的平民主義を唱えた徳富蘇峰がのちにこれに合流、日本主義の高山樗牛、反欧化主義の陸羯南らがくわわって日本民族派というべき思潮をつくりだされた。
 山本峯章は、のちに児玉誉士夫の後継者になる西山幸喜とともに日本新聞社から三宅雪嶺の『日本及び日本人』の版権を買い取っている。
 編集にあたったのが産経新聞出身の栗原一夫、田辺信夫らで『日本及び日本人』は、日本新聞社、日本及日本人社、J&Jコーポレーションと版元を変えて2004年1月(通巻第1650号)まで発行された。
 その後、山本は、中川一郎(のちの農林大臣)とともに「国民討論会」を主宰して、多くの保守系言論人をまねいている。
 多くが「日本文化会議」のメンバーで、数年後の1969年創刊の文藝春秋オピニオン誌『諸君!』の執筆陣とも重なる。
「国民討論会」に、三島由紀夫黛敏郎藤島泰輔ら多くの保守論客が招かれたが、福田恒存会田雄次猪木正道高坂正堯小林秀雄林健太郎村松剛ら日本文化会議のメンバーも有力な候補者であった。
 当時、日本の思想界・学術界は、朝日・岩波が象徴するマルクス主義一色で、保守系の論者が意見を発表する場はほとんどなかった。
 日本の思想界がこのような地盤沈下をおこしたのは、敗戦によって、日本の主権が奪われたからだった。
 ●主権喪失の悲哀を味わった鳩山一郎公職追放
 徳富蘇峰は1945年にA級戦犯に指定されて(不起訴)のちに公職追放を受けている。
 三宅雪嶺は、終戦の年に亡くなっているが、存命だったら、蘇峰以上に手厳しい仕打ちをうけていたはずである。
 戦争に負けるということは、土着の文化や価値、宗教観が外来の文明に打ちのめされることでもある。
 終戦から40日しかたっていない45年10月4日、GHQは日本政府にたいして治安維持法特別高等警察特高)などの廃止、内務大臣や警保局長、警視総監、各道府県警察部長(本部長)、特高全職員らの罷免を命じた。
 これにより、内相や内務省の警察の首脳、特高職員ら約6000人が一斉に辞めさせられた。職業軍人をはじめ高級官吏や政党・言論界・経済界などの指導者や長と名のつくものはすべて公職追放によって、職場や地位を失った。
 さらに、天皇マッカーサーの新聞写真を発禁処分にしようとした内務省にGHQが激怒、当時、最有力の官庁だった内務省はGHQににらまれてやがて解体される。
 次期首相がきまっていた自由党鳩山一郎総裁が組閣直前の1946年5月に、突如、GHQから公職追放された。GHQのこの「公職追放」に、多くの国民が敗戦国の悲哀と屈辱をつくづく味わったものだった。
 1946年1月1日、昭和天皇は「詔書」を発表して、現人神であることを自ら否定(「人間宣言」)したが、同年1月4日、GHQから日本政府に「公職追放令」(第1次)が通達されて、47年には、財界・言論界などへも該当者の範囲が広がって、48年5月までに20万3660人が追放された。
●『閉ざされた言語空間』GHQプレスコード
 追放の該当者はA項の戦争犯罪人、B項の陸海軍軍人、C項の超国家主義や暴力主義者からG項まであって、問題なのがこのG項だった。追放者の範囲を広げるためにGHQが考案したもので、首相になる鳩山一郎石橋湛山ら大物政治家らもG項該当者として、理由もなく、次々と追放されることになった。
 日本のパージ政策は、非ナチス化政策をモデルとしたもので、ドイツにおいては、ナチス党員らに重労働、財産の没収、市民権の剝奪など刑罰的な制裁を科したが、日本では、刑罰的な制裁の代わりに職業の剥奪という社会的制裁が科せられた。しかも、日本特有のG項があるため、多くの日本人は、脅えつづけねばならかった、
 日本の文化と思想を殲滅するための言論統制も周到なもので、江藤淳は、これを『閉ざされた言語空間』と呼んだ。新聞などの報道機関はもちろんのこと個人の手紙に至るまで検閲がおこなわれたが、実際に検閲作業をおこなったのは5000人にのぼる日本人スタッフだった。
 言論統制(「プレスコード」は30項目にもおよんだが、主だったものは以下である。
 連合国軍最高司令官や総司令部への批判/占領軍への批判/極東国際軍事裁判の批判/GHQが日本国憲法を起草した事に対する批判/検閲制度に対する言及/米国、ソ連、英国および連合国の批判/中国、朝鮮への批判/満州での日本人への処遇に関する批判/戦争擁護、神国日本、軍国主義の宣伝/ナショナリズム大東亜共栄圏の宣伝/戦争犯罪人の正当化/闇市や飢餓に関する報道/占領軍兵士と日本人女性の関係に関する報道/原爆や大空襲に関する報道/進駐軍による犯罪行為
 日本のマスコミは、GHQのPR局だったわけだが、戦後日本の社会構造がGHQ寄りになったのは、マスコミだけではない。
 官僚や法曹、左翼も、国益など眼中になく、じぶんの利益になるほうになびくという売国奴的になってくるのも敗戦国の性で、渡部昇一は、これを「敗戦利得構造」と断じた。
 次回以降は、政治と国益というテーマについて、山本峯章のインタビューを交えてつたえる