実録・戦後日本と昭和政治史3

 国益主義の保守政治、理念主義の革命政治
 フランスのド・ゴール大統領は「政治が最終的にもとめるものは国益だ」と喝破した。
 日本の政治も国益型だったが、これに理念型がくわわったのは、明治維新薩長政府が西洋化政策をとったからだった。
 国益の他に文明化や近代化などの新たな価値がでてきて、政治が国益をもとめる実益型と、理想を追求する理念型へと二分されたのである。
 ヨーロッパで、その契機となったのが革命だった。国家を運営する現実政治が、個人の理想を実現するユートピア思想にすげかえられたのである。
 それまで、人々は、全体の利益は個の利益につながる、あるいは個の利益の総和が全体の利益であるという神話を素朴に信じていた。
 その神話を裏切ったのは、絶対王政専制政治宗教戦争だった。
 これらの乱世の構造は、人民(個人)にとって過酷なものだった。
 全体の利益と個の利益が、調和どころか、断絶していたのは、人民と国家の関係が「個と全体」の関係と同様、矛盾していたからである。
 じじつ、国家は強大で、一方、個人は、弱小で無力だった。
 したがって、個人が体制をひっくり返すなどというだいそれたことを考えるものは一人もいなかった。
 ところが、17世紀になって、人類は、価値観と思想の大転換をおこなって歴史改造という世紀の大事業にのりだしてゆく。
 革命である。議会派のクロムウェルが国王チャールズ1世を処刑したイギリスのピューリタン革命(1649年)にはじまって、英国から独立して平等や自由、基本的人権や民主主義などの観念のもとで国家をつくりあげたアメリカ革命(1776年)、ブルボン絶対王政を倒して、ロベスピエールの恐怖政治やナポレオンの軍事独裁をまねいたフランス革命(1789年)などの一連の出来事がそれで、これらのブルジョワ革命が産業革命をともなって、近代という新しい時代の幕が切って落とされる。

 ●革命と帝国主義、世界大戦~動乱の20世紀
 第一次世界大戦(1914年)後のロシア革命(1917年)や東欧の社会主義化、第二次大戦(1939年)後の中国や北朝鮮の誕生など、20世紀は革命と世界戦争の世紀となったが、そのタネをまいたのは、革命だった。
 革命からうまれたのは、人間が尊重される理想郷ではなかった。個人を一般化した国民主権のもとに打ち立てられたのは、帝国主義植民地主義で、第一次世界大戦は、帝国主義化した国々が植民地を奪い合った末の大殺戮戦だった。
 革命によって、強固な国家ができあがったが、一方、徴兵令によって戦場にかりだされる個人は、国家のために命を捨てる弱い存在でしかなかった。
 個が体制を転覆させた革命も、結局、個にはなんの恩恵もなかったのである。
 国家権力を民衆の手にとりもどすのが革命だが、民衆(個人)には、全体をコントロールする能力がそなわっていない。エゴがはたらくからで、ヒトラースターリンも、毛沢東ルーズベルトも、個人の限界や欠陥をもった不完全きわまりないリーダーだった。
 そもそも、エゴをひきずる人間は、共同体の指導者にはなれない。
 例外が日本の天皇で、無私の天皇の権威が日本という国家の礎となった。
 日本は、万世一系の皇統が知ろしめす国体という原理をあみだして、これを国のかたちとしたのである。。
 前大戦の終戦交渉で、日本が国体護持に固執したのは、国体を失えば、国が亡びるという危機感があったからだった。山本峯章はこういう。
「日本は、歴史上、革命を経験したことがない伝統国家で、その象徴が天皇である。天皇は、歴史という観念上の存在で、それが万世一系という現実世界とかさなりあって、数千年にわたってつづいてきた。国体護持というのは、文化防衛で、その文化には、縄文時代から現在へといたるあらゆる叡智がつまっている。西洋の文明は、合理性だが、合理にはかならず反合理があって、破綻がまっている。たとえば、多数決だが、多数決は、合理的な方法だが、少数派の切り捨てという不合理をもっている。日本には、談合の文化があって、調整をおこない、不満を最小限におさえる。アメリカ人的にいえば不正の温床ということになるが、このユルミやあいまいさを容認しなければ、社会は荒廃する。その結果、勝つものは常に常勝で、負ける者はいつまでも負けつづけるという新自由主義的な不条理がうみだされる」

 ●伝統破壊にむかう革命勢力といかにたたかうか
 第二次世界大戦は「革命国家」群と「権威(伝統)国家」群の戦争だった。
 だが、革命と大戦の時代のさなかにあった当時、世界の大多数が革命国家で伝統国家は、少数派だった。
 したがって、戦争に負けた日本は、戦勝国によって国家を解体される危機にさらされた。
 事実、中国革命や朝鮮戦争、米ソ冷戦がなかったら、日本は、連合軍の手によって、共和国へと改造されていたであろう。
 戦後、共産主義の脅威は、むしろ増していた。コミンテルンの魔手が迫っていたばかりか、GHQが共産主義に洗脳されていたからで、マッカーシー旋風や共産主義者取締法(1954年)がなかったら、当のアメリカすら共産党におびやかされていたかもしれなかった。
 戦後、コミンテルンの支援によって、中国や北朝鮮が建国したが、日本共産党も、1922年、コミンテルン日本支部として発足、労働・組合運動の高揚とあいまって、日本のいたるところで、赤旗がひるがえった。
 当時の共産主義にたいする警戒感をしめすエピソードに木村篤太郎の〝反共抜刀隊〟構想がある。
 木村は、防衛庁長官(初代)や法務大臣(初代)のほか検事総長第一東京弁護士会会長を歴任した大物政治家だが、法務総裁・法務大臣時代、日本共産党の暴力革命への懸念から自ら破壊活動防止法案を提出、成立させている。
 その木村が、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に「反共行動部隊」の編成をもちかけている。
 いかに日本が共産主義の危機に脅かされていたかを物語るエピソードである。
 マルクス主義一色だった日本で革命がおこらなかったのは、天皇が存在したからで、日本共産化の危機を救ったのは、昭和21年から昭和29年まで8年半をかけて46都道府県を行幸された昭和天皇の全国巡幸であったろう。
 逆にいえば、天皇行幸がなければ、革命の機運はさらにましていたはずである。
 次回以降も、ひきつづき、戦後の共産主義の猛威についてのべる。